時は就職氷河期。大学で学んだ知識を活かせる職場の求人はなし。先輩達が就職した企業からの求人もなし。キャンパス内の掲示板にもほとんど求人が無い状況でした。そんな中、行政、マスコミ、JA、出版社など、採用試験をとにかく受けましたが、不採用の連続。何とか内定を貰えたのが、全くの専門外である医療法人徳洲会でした。大学院に進学したり、公務員専門学校に進む同級生も沢山いましたが、私は奨学金を借りていた手前、返済が始まるため就職一択でした。鹿児島から大阪へ、社会人1年目のスタートでした。
徳洲会大阪本部に配属され、徳田虎雄理事長から、直接辞令を頂いた最後の世代でした。独身寮は、何と徳田理事長のご自宅をルームシェアリングする事となり、徳田理事長との出会いが私の人生の最初の転換点となりました。徳洲会では様々な地域での新規病院立ち上げや、医師採用で全国を飛び回り、四国、東北以外の都道府県をほぼ周る事となりました。
チームマネジメント、プレゼンテーション、損益計算など、多くを実践の中で学びました。
結婚後、宮崎に帰郷し、一般財団法人潤和リハビリテーション振興財団に就職。大野理事長との出会いが更なる人生の転換点となります。厳しさの中にも愛がありました。徳洲会の経験を基に、新規の医療制度の導入や人事制度の見直しなど、様々なプロジェクトを任され、忙しくとも充実した日々でした。特に5つのお金のお話は忘れません。そんな中、大野理事長が後援会長を務めていた河野俊嗣宮崎県知事の政務秘書の話が舞い込んでくるのです。
この知事秘書の経験が、私が政治家を目指す大きな契機の一つとなりました。